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学校としてのバウハウス、その日本への展開

本橋仁(建築史家)× 梅宮弘光(建築史家)

13 Feb 2019

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20世紀初頭にドイツのワイマールで生まれたバウハウス。当時の抽象表現や構成主義などと連動した革新的なカリキュラムによって、近代デザインの礎を築いた。ナチスによって閉鎖させられるまでのわずか14年という短い期間ではあったが、その影響は建築だけでなく、グラフィック、写真、プロダクトなどあらゆる造形芸術に及ぶ。

そして今、設立100周年を迎え、バウハウスを新たな視点から捉え直そうという動きが各国で進められている。日本でも2018年に京都国立近代美術館で、バウハウスの教育システムと他国への伝播にフォーカスした「バウハウスへの応答」展が開催された。

改めて、バウハウスとはなんだったのか、そして日本はそのインパクトをどのように受容してきたのか。京都での展覧会を担当したひとりで同館特定研究員の本橋仁氏、そして長年日本におけるバウハウス受容について研究してこられた建築史家の梅宮弘光氏に話を伺った。

 

建築の常識を覆したデッサウ校舎

──バウハウスは、グラフィックやプロダクトだけでなくダンスや舞台までをもカリキュラムに加えていました。非常に幅広いカリキュラムの中で、建築はどのように位置づけられていたのでしょうか。

本橋仁(以下:本橋) バウハウスという言葉の由来には諸説ありますが、Bauhütte(バウヒュッテ)という言葉からきているという説が有力です。Bauhütteとは「建築の現場小屋」を意味します。展覧会の冒頭で展示している「バウハウス宣言」の表紙にはゴシック聖堂の木版画が添えられています。

ゴシック聖堂の建設には石工や彫刻家、壁画家、測量士などの様々な専門家が集い、彼らが実際に集まっていたのがいわゆる現場小屋だったんですね。そういう場所がバウハウスの理想形だといわれている。宣言文からは、いろいろな要素から成り立っている建築によって芸術を縫合することが目指され、そのためにひとつの学校で様々な芸術を教えていこうというバウハウスの考えが示されています。

  • 設立に際し初代校長グロピウスによって出された「バウハウス宣言」 ヴァルター・グロピウス(本文)/ライオネル・ファイニンガー(画)《バウハウス宣言》(1919) 大阪中之島美術館蔵

──バウハウスを代表する建築としては、初代校長で建築家のヴァルター・グロピウスの設計で1926年に完成した《バウハウス・デッサウ校舎》が有名ですが、どういった建築だったのでしょうか。また、この建築の何が画期的だったのでしょうか。

梅宮弘光(以下:梅宮) それは、異なる機能と形態をひとつの「構成」として統合している点ではないでしょうか。校舎は大きく工房棟、アトリエ棟、職能学校棟の3つからなっていて、それぞれに異なる外観が与えられています。工房棟はフラットな全面ガラス、アトリエ棟は規則正しく並ぶ窓とテラス、職能学校棟は連続する水平窓。これらが、ピロティで持ち上げられた管理棟や低層の講堂棟でつながれて一体になっている。

それまでの建築のまとめ方は左右対称の平面と立面に必要な機能を詰め込んでいくというのが基本でしたから、デッサウ校舎に見られるような非対称と均衡によって生み出される新しい一体性というのは、当時にあっては新鮮だっただろうと思います。

  • 全面ガラスの工房棟(左)、水平連窓の職能学校棟(中心奥)、規則正しく窓が並ぶアトリエ棟(右)
    ルチア・モホリ 《バウハウス・デッサウ》(1925–6)

本橋 加えて、当時と今とでは、この校舎の見え方はまるで違っていたのではないかと思っています。それは、今回の展示で取り上げた、当時の日本からの留学生のひとりである建築家の山脇巌が撮影した校舎を見て感じました。普段この校舎を語る際には、BAUHAUSの文字が縦に配された校舎の南側から撮られた写真がよく使われるかと思います。これは、コンクリートの躯体に、構造とは無関係のガラスのカーテンウォールが取り付けられ、水平に建築が伸びていく様子がよく分かる構図です。

しかし山脇の写真を見ると、その反対側、つまり、ガラスのカーテンウォールが、直角に回り込み、二面をガラスのカーテンウォールで覆われた側をとらえています。

  • 山脇巌 《バウハウス・デッサウ(西側)》(1930) 日本大学芸術学部芸術資料館

こちらから見ると、光の反射効果もあってか、まるでガラスの塊のようなのです。そう考えると、建築家・ブルーノ・タウトの《ガラスの家》からの連続性も感じられます。こうした写真は、なにも山脇だけが発見したものではなく、当時の写真では多く散見されるものです。文字のフォントや白とグレーのコンクリートとガラスとの対比に見ているのはレトロスペクティブなバウハウスのイメージであって、もっとガラスのマッスが立ちあがったような印象をもっていたのではないかと思うのです。

 

グロピウスが変えた窓の意味

──デッサウ校舎の特徴の一つに、それまでになかった大規模なカーテンウォールの実現ということがあります。それはどのようにして可能になったのか、また窓の意味をどのように変えたのでしょうか?

本橋 バウハウス出身の写真家、ルチア・モホリが残した工事中の写真を見ると、コンクリートで打たれたスラブの近くに、レンガが積んであるようなのです。コンクリートとガラスの近代的な表現の影には、隠れたレンガの存在があったわけです。先駆的なデザインを実現するためには、まずは既存の技術体系で間に合わせざるを得ないのは宿命です。

  • 工事中のバウハウス・デッサウ校舎。ルチア・モホリ 《バウハウス・デッサウ(南東側)》(1926)
    VG Bild-Kunst Bonn / JASPAR, Bauhaus-Archiv Berlin

詳しくはないですが、そもそも鉄筋コンクリート造の非構造部材にレンガを充填することは、今でもヨーロッパでは普通に行われているのではないでしょうか。ただ、興味深いのはデッサウ校舎では窓台という、スチールとガラスが高い精度を要請してしまうところに、目地でいくらでも調整可能なレンガを積み上げていることです。コーキングも今のようにしっかりできないでしょうし、レンガともちろん目地で微妙な寸法調整しているんでしょうね。

どれほど新しいデザインも、その実現のためには施工可能であることが前提です。鉄筋コンクリートで貫徹していないことが評価を邪魔するのではなく、むしろ既存の技術体系とのリミックスにより、それを担保していることに、あのデザインの価値が見いだせると思います。

──カーテンウォールの一部が開閉できるようになっている機構はどのように実現されたのでしょうか?

本橋 あまり一般用途では見かけない縦軸の回転窓が、連続で並んでおり、ひとつのハンドルを回せば同時に窓を開閉できる機構をもっています。まるで、温室やビニールハウスなどのようで、工業的なイメージを感じます。

梅宮 組積造を基盤として発展してきた西洋建築の歴史において、カーテンウォールの出現ということには大きな意味があったわけです。かつては石を積んだ部分が壁で、そこに開けた空隙が窓。壁には荷重を支えるという役割があるけれど、窓はそれから解放されている。どこまでが壁で、どこからが窓なのかがはっきりしていた。つまり、建物の立面は壁と窓からできているとシンプルに言うことができるのです。

  • 山脇巌 《バウハウス・デッサウ》(1930) 日本大学芸術学部芸術資料館

ところが、カーテンウォールではその区別は消滅している。文字通り全部が壁だし、あるいは全部窓と言えないこともない。そうなると、立面に、空気や光や視線に対してどのような振る舞いをさせるのかということだけを考えればよくなるわけです。光だけ通せばいいのならガラスの嵌め殺しになるし、換気が必要なら開閉機構がいる。視線を遮りたいなら不透明な材料にするとか。

デッサウ校舎の場合、この振る舞いの違いが、先にもふれた各棟の立面に現れているように思います。あくまで私見ですが、工房棟は、グロピウスにとっては工場建築だった。なぜなら、グロピウスがバウハウスで目指したことは、教育の変革を生産の変革につなぐことだったわけですから。そこで、生産現場である工房は明るくないといけないというわけで、あのような大々的なガラス壁面の採用になった。

ガラスのカーテンウォールに限れば、グロピウス設計による1911年の《ファグス靴工場》や、1914年のドイツ工作連盟展におけるモデル工場にすでに登場していて、デッサウ校舎の工房棟はそれら工場のヴァリアントと見ることもできます。

  • ヴァルター・グロピウス+アドルフ・マイヤー 《ファグス靴工場》(1911-1914) ©Edmund Lill

それで、ご指摘の開閉機構ですが、あれは鎖で歯車を回し、その回転を直線運動に変換して一度に多くの窓を開け閉めするというものですよね。ここには二重の意味でグロピウスが目指した機械による大量生産の論理が現れていると思うのです。つまり、最小の労力で最大の成果を目指す、それを機械化によって実現させる。さらにその全体の大量生産を可能にする、というものです。

何枚くらいの窓が一度に動くのか知りませんが、それなりに多くの窓がひとつの操作で一斉に回転するようになっています。そして、その機構自体も、鎖、歯車、ロッド、スライダーという規格化された単純部品でできていて、これを鉄枠とガラスに追加するとあの壁面ができあがる。つまり、全体がひとつの装置であって、しかも大量生産が可能というわけです。

グロピウスは早くからプレファブリケーションによる住宅の大量生産を提唱していたし、1927年には鉄骨とパネルを部品にした組み立て式住宅(House No. 17 at the Weissenhof Estate)を建ててもいます。デッサウ校舎のガラスのカーテンウォールや窓の開閉機構には、建築部位の機械装化、あるいは大量生産という論理の片鱗が見いだせるのではないでしょうか。1910年代、20年代のグロピウスは、新しい生産の論理を建築にもたらそうとしていたように思えるのです。


前提となったバウハウス

本橋 「バウハウスへの応答」展を観にきてくれた方々と会話すると、ル・コルビュジエの弟子には前川國男、吉阪隆正、坂倉準三がいて、みなコルビュジエの影響をなにがしか感じる。ではバウハウスは何を日本に残したのか、現代にどのように系譜として根付いているのかと何度も問われる場面に接しました。

でも、いわゆるモダニズム建築という理論にたったデザイン構築を求めた世界の中で、個に立脚した、誰々風と短絡的にくくれる様式の類は存在しないというのが、本来の理想だったはずです。であるから、デザインのスタイルとしてバウハウスを見ようとするのはおかしなことだと思います。

バウハウスは家具や生活雑貨など多岐にわたってデザインを生み出しましたが、それは総合芸術を希求する試行錯誤の過程で生み出された途中経過、あるいは副産物のようなものだとひとまず捉えるべきではないでしょうか。バウハウスのデッサウ校舎は、いうなれば中間点のようなものでしかないと割り切って考えなければいけないと思うのです。

  • バウハウス・デッサウ校舎の織物工房(1927年頃)
    © Stephan Consemüller 画像提供: Bauhaus-Archiv Berlin G1643

梅宮 ル・コルビュジエは生涯ひとりの芸術家としてのスタンスを堅持しましたが、グロピウスはそうではなかった。バウハウス閉鎖後、戦前にアメリカに渡りハーバード大学で教えますが、戦後は“The Architects Collaborative”という設計事務所に長老格として参加します。この事務所、日本では頭文字をとってTAC(タック)と呼びますが、あえて訳すなら「建築家たちによる共同設計の事務所」ということになるでしょうか。その名のとおり共同設計を標榜して大規模プロジェクトを多く手掛けました。

日本人とバウハウスとの出会い

──バウハウスはどのように日本へ伝わったのでしょうか。

本橋 日本で初めてバウハウスが紹介されたのは、1925年の雑誌『みづゑ』誌上の美術評論家の仲田定之助によるルポタージュ記事です。その時点ですでにバウハウス設立から6年が経過しています。最初の留学生である水谷武彦がバウハウスに入学したのも1927年ですね。ただ、当時は堀口捨己、今和次郎や武田五一などいろいろな人が見学に行ったようです。

梅宮 その後、1929年末、『建築新潮』と『建築紀元』の二つの建築雑誌が同じ月に発行したバウハウス特集号ですね。とくに注目したいのは『建築新潮』で、なかなか充実した内容です。いろいろな人が執筆しているのですが、企画全体をまとめたのは川喜田煉七郎。そのときに彼が活用したのが、さきほどの仲田が集めたバウハウス資料なのです。つまり今風に言うならば、仲田のアーカイブ力と川喜田のキュレーション力が合わさってこそ実現した特集といえます。

最初の日本人バウハウス留学生、水谷武彦の帰国が1930年1月。この年から、バウハウスの教育を生身で経験した人間によるバウハウス紹介が始まるわけですが、それが組織的に始められるのが1931年の「生活構成研究所」です。この組織は単発の講習会や展覧会でバウハウスを紹介するのですが、その活動を学校という形態に展開して継続的に運営したのが、川喜田主宰の新建築工芸学院なのです。

  • 水谷武彦のバウハウス教育についての授業を受けていた建築家・清家清によるノート

──展覧会ではバウハウスの教育システムに影響を受けた新建築工芸学院と、その主宰者である川喜田煉七郎に着目しています。ウクライナのハリコフ劇場建築国際設計競技で日本人として唯一4位入選を果たし注目を集めたこともある川喜田というのはどのような人物だったのでしょうか。

梅宮 一言で表すのは難しい人です。とりあえず学歴という点からすれば、建築の専門家ということはできる。東京工業大学の前身の東京高等工業学校附設教員養成所建築科というところを卒業しています。

卒業後は学校の先生になるのですが、1年ほどで辞めてフランク・ロイド・ライトの弟子として知られる遠藤新の事務所に入ります。しかし、ここもすぐに辞めてしまう。その後は一貫してフリーですね。

フリーになってからの活動は、大きく3期に分かれます。第1期は1920年代後半期、壮大なアンビルトを発表する一方、いろいろな建築雑誌に記事を書きまくります。ハリコフ劇場建築国際設計競技への応募は、この時期の最後の活動ですね。

  • 川喜田煉七郎「ウクライナ(ハリコフ)劇場国際設計競技応募案」模型(2018年再制作) 制作者:諏佐遙也(ZOUZUO MODEL)

第2期は1930年代前半期のデザイン教育活動です。その中核をなすのがバウハウス流の基礎教育だったのですが、川喜田が目指していたのはこの基礎教育そのものではなくて、それを応用した具体的なデザイン教育だったのです。しかし、この応用部分の教育は発展しなかった。先端的なだけに生徒が来ないのです。

なので、彼はその応用を個人の活動として開始します。それが、商環境という対象を新しいデザイン分野として開拓することでした。これが第3期で、彼が店舗能率研究と称するものです。

店舗設計といっても、川喜田の場合は、空間をどのように設計すれば、ヒトとモノとカネはどのように動くのか、これを機能主義的に追求するというもので、今日で言えば経営コンサルティング、あるいは空間プロデュース、その先駆者ということになるでしょうか。

 

デザインと経営を結ぶ空間の構成原理

──川喜田はなぜバウハウスに注目したのでしょうか。

梅宮 もちろん、ヨーロッパの新動向に対する単純な興味という面もあったでしょうが、より重要なことは、当時の日本の若い建築家や芸術家たちが、バウハウス活動やその変遷に、日本で自分たちが当面している問題を解決するためのヒントを感じ取っていたという点ではないでしょうか。

こと川喜田についていえば、それが、アンビルトつまり夢想的な計画案の制作を彼に止めさせ、建築のみならず、より広く生活全般を対象にしたデザイン教育へと活動を変えさせた要因だったと思います。つまり、それまで建築雑誌上や展覧会で展開されていた、専門家の内輪だけで通じるような議論の閉塞状況を打ち破り、より一般的で基礎的なところから変革を広げていく具体的な方法であると気付いたのだと思います。

本橋 私は、建築が大衆、たとえば主婦層にまでおりていく過程に興味があります。そうした本が、実は大正から昭和初期に数多く刊行されているのですが、その一環で本を集めている時に川喜田の店舗のインテリアデザインに関する本に出合いました。そもそも現在でも建築家とインテリアデザイナーの間には断絶があります。わたし自身、そうした独断的な捉え方に陥っていたのかもしれませんが、川喜田のことを建築家としては認識していなかったのです。

バウハウスの実際を見て学んできた建築家を招き入れれば、ややともすると建築志向に偏ってしまいがちなところを、生活構成研究所は必ずしもそうならなかったところが、バウハウス以上に結果的にバウハウスらしいというか、川喜田の視野の広さを現しているのではないでしょうか。

  • 川喜田の設計による菓子店(1936年頃) 出典:川喜田煉七郎 『図解式店舗設計陳列全集1』(モナス) 1940年

──川喜田はショーウィンドーについての書籍も執筆していると伺いました。

梅宮 そうですね。ショーウィンドーというもの自体が、とても近代的な装置ですよね。よく20世紀は視覚の時代といわれます。それは写真や映画という新しいメディアの発明、印刷技術の飛躍的な発展があったからですが、都市や建築においては、ショーウィンドーという空間装置の出現が大きいのではないでしょうか。博覧会やそれを祖型とする百貨店、あるいはガレリアのような都市空間も含めて考えることができると思います。

このように、20世紀になって新しい視覚、すなわちディスプレイ=展示、表示、陳列ということが、デザインの領域を超えた共通テーマになるわけです。今日、ショーウィンドーというと商店のそれを連想しがちですが、商店に限らず、広くディスプレイの一環として捉えるべきものですよね。バウハウスにおいても、ものづくりだけでなく、このディスプレイということが大きなテーマになっていた。川喜田の店舗設計の根底にあるのもこうしたディスプレイの原理で、共通しています。

しかし、川喜田の設計した店舗の写真などを見ると、バウハウス的なイメージとはかけ離れているのです。バウハウスのほうはいかにもモダン・デザインという感じでカッコイイけれど、川喜田のほうはなんだか垢抜けない……。

なぜそうなるかというと、川喜田は外見には一切感心がないからなのです。見た目つまり見えるものは、消費者である大衆の好みに合わせておけばよい。彼が注力するのは見えないもの、つまり人の視線をどのように誘導し、商品を理解させ、最終的に買う気にさせるのか、それを可能にする空間の骨格、つまり空間の構成原理なのです。

 

100年後から見るバウハウス

──最後に、改めて今年設立から100年を迎えるバウハウスという学校から私たちが学ぶことはなんでしょうか。

本橋

展覧会には、多くの建築を教える先生たちにも足を運んでいただきました。話をしていると、うちの大学はバウハウスのカリキュラムを参考にしているんだ、という話を何度か耳にしました。なんと、わたしの母校でも。わたしも知らないうちに、バウハウス流の授業を受けていたらしいんですよね(笑)。

建築を学んだ方なら設計ではなく、なにか抽象的なお題を与えられて形に落とし込むような演習の授業を受けられた思い出をお持ちなのではないでしょうか。あれが、バウハウスの予備過程からきているというのです。こちらが気が付かないほどに、日本はすでにバウハウスを十分、自分たちのものとしてきたわけです。

一方で、建築教育のベースとなるのは、あくまでも名作と呼ばれる建築のトレース、あるいは設計課題です。ただ学生が自ら、この演習と設計とを意識的に接続させることはかなり困難ではないかと常日頃思っていました。ではバウハウスでは、理論と実技が有機的に接続され、創造性豊かな理想の教育ができていたのでしょうか?彼らの作品を見る限りでは、実はそこが疑問なのです。

反論もあるでしょうが、バウハウスも理論と実技の統合を目指していたにせよ、その境地に辿り着け得ていなかったのではないか……。にもかかわらず、今の教育はこの両者を等価におくという理論構築だけが受け継がれ、無意識下において統合化されると盲信しているのではないか。学ぶよりも先に、今の教育を続けるのであれば、先人たちが到達できなかった境地に到るメソッドを模索しなければいけないのではないでしょうかね。

梅宮 バウハウスがどれほど前衛的であろうと、その登場はやはり時代の要請と考えるべきでしょう。ひとつの時代の産物ということです。つまりヨーロッパが農耕社会を引きずりながら工業社会へと飛躍しようとしていた時代に生まれたものです。学ぶというのとはちょっと違いますが、むしろ警戒したほうがいいと思うのは、今日、バウハウスを安易に神話化することではないでしょうか。ブランド化と言ってもいいかもしれない。

しかも、そうした言説の多くはプロモーション的なものです。ですから単純明快で分かりやすい物言いが求められるし、現在の社会で流通しやすい。そういう言説が繰り返されると、実体のイメージは陳腐化して、そのまま固定化されかねない。この意味で、設立100周年というタイミングが、そうした動向に歯止めをかけるように作用すればいいなあと思っています。

 

梅宮弘光/Hiromitsu Umemiya
神戸大学大学院人間発達環境学研究科教授。1958年、神戸市に生まれる。近畿大学工学部建築学科卒業。鹿島出版会『都市住宅』編集部。京都工芸繊維大学大学院工芸学研究科、神戸大学大学院自然科学研究科修了、博士(学術)。専門は近代建築史。国際プロジェクト「bauhaus imaginista(想像のバウハウス)」ではキュレートリアル・アドバイザーを務める。(同サイトの執筆記事 「透明な機能主義と反美学─川喜田煉七郎の1930年代」)

 

本橋仁/Jin Motohashi
京都国立近代美術館特定研究員。早稲田大学建築学科助手、メグロ建築研究所取締役を経て現職。博士(工学)。専門は近代建築史。継続的な活動に、図面表現懇親会(伏見唯、大井隆弘と協働)、失われた西洋近代の木造建築の再発見(福島加津也、冨永祥子と協働)など。http://archive-tektur.net/


展覧会「バウハウスへの応答」

会場/京都国立近代美術館 コレクション・ギャラリー(4F)
会期/2018年8月4日(土)~10月8日(月・祝)
http://www.momak.go.jp/Japanese/exhibitionArchive/2018/426.html

トップ画像: ルチア・モホリ  《バウハウス・デッサウ(南西側)》 VG Bild-Kunst Bonn / JASPAR, Bauhaus Archive Berlin

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